福知山城
別名 横山城 臥竜城 八幡城 |
付近住所 京都府福知山市内記5 | 現在- |
2008/3/31 | 案内板アリ | 日本城郭大系 |
塩見氏→ 明智光秀→ 明智秀満→ 杉原家次→ 田中吉政→ 小野木重勝→ 有馬氏 豊氏→ 天領 岡部氏 長盛→ 稲葉氏 紀通→ 深溝松平氏 忠房→ 朽木氏 稙昌→ 稙元→ 稙綱→ 稙治→ 玄綱→ 綱貞→ 舗綱→ 昌綱→ 倫綱→ 綱方→ 綱条→ 綱張→ 為綱 |
福知山城は天正年間明智光秀の縄張りと伝えられ慶長年間にいたり近世城郭として完成されました。 明治の廃城後わずかに残された本丸に多くの皆様の協力により大天守閣続櫓小天守閣が再建されました。 城郭研究の権威東京工業大学名誉教授藤岡通夫工学博士の復元設計による二重櫓に入母屋の大屋根をかけその上に小望楼をのせた姿は初期天守閣の様式をよく表わしています。 福知山城と城下町 福知山のまちは、天正7年(1579)に丹波を平定した明智光秀が城を築き、城下町整備に着手したことではじまったものと伝えられ、福知山城も光秀ゆかりの城として知られています。城は明治の廃城令により本丸・二の丸の建物が取り壊され堀も埋められ、天守閣周辺の石垣しか残されていませんでした。しかし、昭和61年に市民の熱い想いで天守閣が再建され、福知山の美しい四季を背景に往時の姿をしのばせています。 城地は市街地の南から北東に向かって突き出した丘陵上(標高約40m・幅約100m)に位置し、周囲を由良川・土師川、丘陵で四方を守られた要地にあります。中世には天田郡の豪族、塩見氏がこの地に横山城と称する山城を築いたといわれています。 丹波を平定した光秀は、福知山城の縄張りを行い、治政に反抗的な近隣社寺を打ち壊し、石塔類を天守台の石垣に利用したと伝えられています。一方ではこれらの石塔は城のお守りとしたのではないかとも言われています。天守の一部は、城再建時の発掘調査の成果や石垣の特徴から、光秀の時代に造られたことが確認されています。 光秀は城下町を造るために堤防を築いて由良川の流れを変え、町に地子銭(税金)免除の特権を与えて商家を育てたとも伝えられています。その期間は短いものでしたが、光秀は強く人々の記憶に刻まれ、城下町の鎮守である御霊神社に祀られ、「明智光秀丹波を広め 広め丹波の福知山」と福知山音頭に今も謡われるなど、広く永く市民に親しまれています。 光秀の丹波平定後、城には家臣明智秀満が入りました。光秀没後は羽柴秀長の家臣が管理したと言われ、その後杉原家次、田中吉政、小野木重勝と続きました。関ヶ原の合戦後、有馬豊氏、岡部長盛、稲葉紀通、松平忠房、朽木稙昌と交代し、その後朽木氏は福知山藩主として幕末まで在城しました。今に残る城下町の形態と壮大な城郭が整備されたのは、有馬豊氏の時代と推定されます。 |